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あんまり読む人がいなさそうなテーマだけど、 みなぶるの記事 への呼応として書いてみる。『私たちも頑張るからみんなも頑張って!』が社会的に通用するか(成立するか)、という話なのだけど。
個人的な話だったら成立すると思うのよ。
「ゴリがあんなにパーカス頑張ってるんだから、私もリードの練習頑張ろう」みたいな?「私もコーラス頑張るからさ、ごっちゃんも頑張ろうよ!!!」みたいな?w
まあこういうのは素直に理解できる話だよね。
頑張りの連鎖、モチベの連鎖。
じゃあ社会的にだったら、どうだろう。
例えば地域。
「あんまり元気の無い地域」にとって、「元気のある地域」が頑張ることはモチベーションになり得るのだろうか?
同じく「あんまり元気の無い地域」にとって、「他の、あんまり元気の無い地域」が頑張ろうとしていることは、モチベーションになるのだろうか?
「町おこしに興味の無い人」は、「町おこしを頑張る人」を見て、自分も頑張ってみようって気になるのだろうか?
結論は・・多くの場合、「ならない」よね。他のどこかが頑張っているって事実だけじゃあ、自分の地域も頑張ろうって気持ちにはならない。
自分の地域に対して問題意識が無い人々(もしくはあったとしても気にしない人々/それ自体に興味が無い人)にとって、改革意識のある人々が“頑張っている”こと自体は、なんのモチベーションにもならないわけだ。近所のウワサ話だけが生き甲斐の主婦が、「どこどこの奥さんは地域活性化を目指してボランティア活動をしてるらしい」とか聞いたところで、「へえ〜フーーーン」でしょ、たぶん。笑
→ じゃあ、一体なにが「モチベーション」のきっかけになるのか?
地域問題になんて興味の無い主婦ですら(逆に言うと、そんな主婦こそ)
「やったるでーーーー」な気分にさせちゃうものって、何だろう。
その答えが、みなぶるのブログにある通り、
「共感」「応援」「感情移入」
なんだなと思う。
何らかの他人の活動や頑張りが、「思わず応援したくなっちゃって」「おもわずホロリと感情移入できて」「気付いたらやたら共感できる」ものであるなら、それまで興味が無かった人が“頑張る必要性”を感じて、なにかを変え始めるのかもしれない。
いままで関係なかったハズのことが、ちょっとしたきっかけで心にグッときた瞬間、社会的なスケールのことだとしてもモチベーションに繋がるのだと思う。
その、一般市民の「共感」「応援」「感情移入」の気持ちのウズを作り出すことが、地域を仕掛ける人にとって重要な役目なのではないだろうか。
あーマスコミの力ってすげーなーー。
だってそれができる可能性をたくさん秘めている。
共感を仕掛けることができる。
言ってしまえば、「共感してもらえるように仕向ける」ことができる。
個人的に思うのは、今こそ【情緒の時代】なのですよ。
モノは溢れてるし、それなりに豊か。日本のどこに行っても、マアマア良い生活はできる。そういう時代の中で、なにかを変えよう!とか何かを買おう!とか新しいアクションを起こさせるのって結構難しい。だって世の中、満ち足りてるから。仕事以外の部分で、必要に迫られてなにかをする、ってことあんまり無いじゃない?
そんな時代だからこそ、人々の行動のきっかけとして、「感情」が重要な部分を占めてくる。
どれだけ、感情のポイントをつかめるか。
人々の心にストンとくる情報を提供できるか。
「ビジネス感覚」といったら大げさだけど、社会人になったら、こういうエモーショナルな感覚を掴んで落とし込めるような仕事をしてみたいと思います。
一筋縄じゃいかないだろうけど、いま最も考えていきたいテーマです。
個人的な話だったら成立すると思うのよ。
「ゴリがあんなにパーカス頑張ってるんだから、私もリードの練習頑張ろう」みたいな?「私もコーラス頑張るからさ、ごっちゃんも頑張ろうよ!!!」みたいな?w
まあこういうのは素直に理解できる話だよね。
頑張りの連鎖、モチベの連鎖。
じゃあ社会的にだったら、どうだろう。
例えば地域。
「あんまり元気の無い地域」にとって、「元気のある地域」が頑張ることはモチベーションになり得るのだろうか?
同じく「あんまり元気の無い地域」にとって、「他の、あんまり元気の無い地域」が頑張ろうとしていることは、モチベーションになるのだろうか?
「町おこしに興味の無い人」は、「町おこしを頑張る人」を見て、自分も頑張ってみようって気になるのだろうか?
結論は・・多くの場合、「ならない」よね。他のどこかが頑張っているって事実だけじゃあ、自分の地域も頑張ろうって気持ちにはならない。
自分の地域に対して問題意識が無い人々(もしくはあったとしても気にしない人々/それ自体に興味が無い人)にとって、改革意識のある人々が“頑張っている”こと自体は、なんのモチベーションにもならないわけだ。近所のウワサ話だけが生き甲斐の主婦が、「どこどこの奥さんは地域活性化を目指してボランティア活動をしてるらしい」とか聞いたところで、「へえ〜フーーーン」でしょ、たぶん。笑
→ じゃあ、一体なにが「モチベーション」のきっかけになるのか?
地域問題になんて興味の無い主婦ですら(逆に言うと、そんな主婦こそ)
「やったるでーーーー」な気分にさせちゃうものって、何だろう。
その答えが、みなぶるのブログにある通り、
「共感」「応援」「感情移入」
なんだなと思う。
何らかの他人の活動や頑張りが、「思わず応援したくなっちゃって」「おもわずホロリと感情移入できて」「気付いたらやたら共感できる」ものであるなら、それまで興味が無かった人が“頑張る必要性”を感じて、なにかを変え始めるのかもしれない。
いままで関係なかったハズのことが、ちょっとしたきっかけで心にグッときた瞬間、社会的なスケールのことだとしてもモチベーションに繋がるのだと思う。
その、一般市民の「共感」「応援」「感情移入」の気持ちのウズを作り出すことが、地域を仕掛ける人にとって重要な役目なのではないだろうか。
あーマスコミの力ってすげーなーー。
だってそれができる可能性をたくさん秘めている。
共感を仕掛けることができる。
言ってしまえば、「共感してもらえるように仕向ける」ことができる。
個人的に思うのは、今こそ【情緒の時代】なのですよ。
モノは溢れてるし、それなりに豊か。日本のどこに行っても、マアマア良い生活はできる。そういう時代の中で、なにかを変えよう!とか何かを買おう!とか新しいアクションを起こさせるのって結構難しい。だって世の中、満ち足りてるから。仕事以外の部分で、必要に迫られてなにかをする、ってことあんまり無いじゃない?
そんな時代だからこそ、人々の行動のきっかけとして、「感情」が重要な部分を占めてくる。
どれだけ、感情のポイントをつかめるか。
人々の心にストンとくる情報を提供できるか。
「ビジネス感覚」といったら大げさだけど、社会人になったら、こういうエモーショナルな感覚を掴んで落とし込めるような仕事をしてみたいと思います。
一筋縄じゃいかないだろうけど、いま最も考えていきたいテーマです。
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私の最終学期が始まりました。
とりあえず健康診断受けないと・・・学校遠いよーー;;
今期の目標をば。
・いい授業があったら履修する。学校をサボらない。
→高い授業料払ってるのにもったいないしね!
後輩と仲良くしよう。笑
・研究を学会で発表したい。
→せっかく研究室に残るんだからね。
卒論の内容をインタフェース論文集に載せたいw
・オリジナリティのある思考力を身につける。
→色んなことを自分の言葉で語れるよう、考える時間を惜しまない。
inputとoutputをたくさんする。
学び残したことが多い。
まだまだ学生である意味はありそうです。
とりあえず健康診断受けないと・・・学校遠いよーー;;
今期の目標をば。
・いい授業があったら履修する。学校をサボらない。
→高い授業料払ってるのにもったいないしね!
後輩と仲良くしよう。笑
・研究を学会で発表したい。
→せっかく研究室に残るんだからね。
卒論の内容をインタフェース論文集に載せたいw
・オリジナリティのある思考力を身につける。
→色んなことを自分の言葉で語れるよう、考える時間を惜しまない。
inputとoutputをたくさんする。
学び残したことが多い。
まだまだ学生である意味はありそうです。
100万回のEveryday、は、
なにがあっても、誰に言われるのでもなく、決められた道を歩むわけでもなく、影響を受けすぎず、心は多少変化しても、私は私のまま日常は続いていく。ずーっと変わらず続いていく。
と思うとけっこう楽しいのよ
いろんなものを捨てながら、
いろんなものを獲得しながら、
その選択のひとつひとつが集まって、
人生の選択になっていく。
学校に所属したり
会社に所属したり、
部長になったり
社長になったり(?)、
彼氏/彼女になったり、
父になったり
母になったり、
するけれど
「人のために生きる」「自分のために生きる」とか
そんな定義の話ではなくて、
変わらない真実として、
日常は続いていく。
誰のモノでもなくて、
わたしはわたしのまま続いていく。
切り取りたい瞬間がたくさんあって良かった。
そのまま溶けてなくなればよかった。
言葉は溢れるくらいがちょうど良かった。
そしてそれを飲み込むくらいが、ね。
自分が信じる道を、信じようと思う。
「こたえのない道」=100万回のEverydayだな、と思う。
※このブログが終わってしまいそうな記事になってしまったw
終わりませんwww
なにがあっても、誰に言われるのでもなく、決められた道を歩むわけでもなく、影響を受けすぎず、心は多少変化しても、私は私のまま日常は続いていく。ずーっと変わらず続いていく。
と思うとけっこう楽しいのよ
いろんなものを捨てながら、
いろんなものを獲得しながら、
その選択のひとつひとつが集まって、
人生の選択になっていく。
学校に所属したり
会社に所属したり、
部長になったり
社長になったり(?)、
彼氏/彼女になったり、
父になったり
母になったり、
するけれど
「人のために生きる」「自分のために生きる」とか
そんな定義の話ではなくて、
変わらない真実として、
日常は続いていく。
誰のモノでもなくて、
わたしはわたしのまま続いていく。
切り取りたい瞬間がたくさんあって良かった。
そのまま溶けてなくなればよかった。
言葉は溢れるくらいがちょうど良かった。
そしてそれを飲み込むくらいが、ね。
自分が信じる道を、信じようと思う。
「こたえのない道」=100万回のEverydayだな、と思う。
※このブログが終わってしまいそうな記事になってしまったw
終わりませんwww
なにが正しいか、なんて私にとっては重要じゃない。
その答えに興味はあるけれど、指図されるものでもない。
重要なのは、頭の中身の「うつりかわり」。
だからこうやって考えていることを書き留めていくのだけど。
本当に、こたえのない道だと思う。
私は中学生くらいから、痛烈に思うことがあればノートに書き留めてきた。しかも、それを将来なにか講演をしたりエッセイとか本を書くようになったときに役立つように。つまり自分のためというよりは、「いつか行うであろう大量のアウトプットのため」に書いていたという感じ。(将来へのいわゆるネタ作りを12歳の頃から意識してたってどうかと思うけど。笑)
きっかけは、「小学生向けの少女漫画が書けるのってすごいなあ」って漫画家に対して思ったことからだったのよね。まさに12歳くらいのときだね。だって小学生が主人公の漫画、書いてるのは大人で、その漫画家は10年も20年も前の感情を回想しながら書いてるんだよな?って思って、すごい尊敬してた。(実際は取材とか沢山してるだろうね、でもそのときには回想だけで書いてると思ってた)
そのとき、「回想力」の豊かな人になろうって決めて、ずっと日記を書いてきたのよね。大学に入ってからはブログとかで適当にやってるけど、それまではノートにガンガン書きなぐって、1日にA4ノートに10ページとか書く日もあったり。
40歳になっても50歳になっても、今(10代とか20代とか)思ってることを忘れずに、できるだけ細やかな気持ちの変化とかを把握していたかった。
色んな人の気持ち、いろんな場合の、いろんな立場の、気持ち。
マイノリティとかマジョリティとか関係なく、自分がその時思ってることはこの世に存在する気持ちだから、だとしたら絶対に覚えていたいと思った。
なにが言いたいかというと、私は結論自体にあまり興味がなくて、「結論らしきものに行き着くまでの感情の変化」に興味があるだけなのだ。
・・・となると、私はスッキリするべきではないのだ。
心がもやもやしてる状態とか、未解決のままグルグルしてる状態を、「ああーースッキリしたい!!!!」「あーーーハッキリさせたい!!!!」みたいな理由で終わらせてはいけないというのが私の生き方だと思ってる。生き方、ってのはけっこう大げさなんだけど、大げさじゃないかもしれないって最近思う。
だからね、「結論らしきもの」に向かっているときの私は、周囲の人にとってみたら面倒くさいと思う。
もしくは「すべき」と「したい」の狭間で揺れているとき。
なにしろ興味しんしんだからね。
自分の状況に。
自分の頭の中身に。
人のアドバイスとかあんま聞かないからね。
それでいて、それとは別のところで相当苦しい。
だって苦しいことを楽しんでるわけではないのは確かで。単なる脳内インプットだから、楽しくもなければ悲劇のヒロインみたいな気分になるわけでもない。
迷惑かけてる人、ごめんなさい。
最近アウトプットのしすぎを反省しました。
いつか、私のアウトプットにお金を出してもらえる状態まで成長したい。
私の考えや経験や仕事の中身を、「知りたい」と言ってもらえるまで頑張ろう。
(SFCの先生になりたいなあ・・・・・)
言葉はとってもおもしろい。
頭の中身を表す方法だから、おもしろい。
その答えに興味はあるけれど、指図されるものでもない。
重要なのは、頭の中身の「うつりかわり」。
だからこうやって考えていることを書き留めていくのだけど。
本当に、こたえのない道だと思う。
私は中学生くらいから、痛烈に思うことがあればノートに書き留めてきた。しかも、それを将来なにか講演をしたりエッセイとか本を書くようになったときに役立つように。つまり自分のためというよりは、「いつか行うであろう大量のアウトプットのため」に書いていたという感じ。(将来へのいわゆるネタ作りを12歳の頃から意識してたってどうかと思うけど。笑)
きっかけは、「小学生向けの少女漫画が書けるのってすごいなあ」って漫画家に対して思ったことからだったのよね。まさに12歳くらいのときだね。だって小学生が主人公の漫画、書いてるのは大人で、その漫画家は10年も20年も前の感情を回想しながら書いてるんだよな?って思って、すごい尊敬してた。(実際は取材とか沢山してるだろうね、でもそのときには回想だけで書いてると思ってた)
そのとき、「回想力」の豊かな人になろうって決めて、ずっと日記を書いてきたのよね。大学に入ってからはブログとかで適当にやってるけど、それまではノートにガンガン書きなぐって、1日にA4ノートに10ページとか書く日もあったり。
40歳になっても50歳になっても、今(10代とか20代とか)思ってることを忘れずに、できるだけ細やかな気持ちの変化とかを把握していたかった。
色んな人の気持ち、いろんな場合の、いろんな立場の、気持ち。
マイノリティとかマジョリティとか関係なく、自分がその時思ってることはこの世に存在する気持ちだから、だとしたら絶対に覚えていたいと思った。
なにが言いたいかというと、私は結論自体にあまり興味がなくて、「結論らしきものに行き着くまでの感情の変化」に興味があるだけなのだ。
・・・となると、私はスッキリするべきではないのだ。
心がもやもやしてる状態とか、未解決のままグルグルしてる状態を、「ああーースッキリしたい!!!!」「あーーーハッキリさせたい!!!!」みたいな理由で終わらせてはいけないというのが私の生き方だと思ってる。生き方、ってのはけっこう大げさなんだけど、大げさじゃないかもしれないって最近思う。
だからね、「結論らしきもの」に向かっているときの私は、周囲の人にとってみたら面倒くさいと思う。
もしくは「すべき」と「したい」の狭間で揺れているとき。
なにしろ興味しんしんだからね。
自分の状況に。
自分の頭の中身に。
人のアドバイスとかあんま聞かないからね。
それでいて、それとは別のところで相当苦しい。
だって苦しいことを楽しんでるわけではないのは確かで。単なる脳内インプットだから、楽しくもなければ悲劇のヒロインみたいな気分になるわけでもない。
迷惑かけてる人、ごめんなさい。
最近アウトプットのしすぎを反省しました。
いつか、私のアウトプットにお金を出してもらえる状態まで成長したい。
私の考えや経験や仕事の中身を、「知りたい」と言ってもらえるまで頑張ろう。
(SFCの先生になりたいなあ・・・・・)
言葉はとってもおもしろい。
頭の中身を表す方法だから、おもしろい。
glico カフェオーレ
↑この映像はいちばん初期のやつかな(たぶん去年のいまごろ?)。
イラストレーターが寄藤文平さん。歌が嶺川貴子さんという人らしい。
このフレーズって、
・仕事や勝負ゴトetc.. ハッキリさせるべきことが多くてなんか疲れたとき
・欲張りな気分で、こっちもー♪あっちもー♪両方イイのよー♪なとき
どっちのパターンにも当てはまるもんね。
毎日お疲れ気味な人にも共感してもらえるし、意欲的でハッピーな人にも共感してもらえる。手広いねw
なにはともあれ。
最近、「まっ カフェオーレだよね」って思えるのよ。私。
3年間お世話になった、住まいです。
ついにカラッポになってしまったー・・
頭の中にはたくさんのことが浮かびます。θion(後輩のバンド)を呼んで一緒にごはん食べたこととか、七夕祭とか秋祭の仕込みをしたこととか、ふっきーと夜な夜な語り合ったり、料理が好きになって色々な食べ物を作ってはみんなに食べてもらって、残留した人にシャワーを貸したり、帰れなくなったKOEがふらりと泊まりにきたり、とかとか。
場所柄、たくさんの友達がウチに来てくれたように思います。
こんな狭い部屋に遊びにきてくれてありがとうー
山梨に引っ越した今、いつもだったら自分でやらないと誰もやってくれなかったことを、気付いたら母親とかがやってて戸惑います(洗濯とかベッドの布団直しとか)。
いつのまにか、「自分のタイミングで生活する心地よさ」みたいなものが、身に付いてしまった。一度一人暮らしをすると戻れないってのはこういうことかなと。実家暮らしに慣れるにはちょっと時間がかかりそう。
金銭的に自立すること(就職!w)を目指して、もうちょっと頑張ろ。
未熟な自分を実感する毎日。
たくましくて余裕のある心を持った大人になりたいです。
私、修行に出たい。。。